朝。
 
 夜が明ければ朝がくる。
 これはとりあえず、BETAと呼ばれる奇怪な宇宙生物と戦争をしているなどと言うこの世界でも変わらない、誰もが知っている自然の法則である。
 では、朝になればどうするか。
 とりあえず人々は睡眠から目覚めるだろう。一部の生活習慣の違うものを除いて、だが。
 そしてこれまた一部ではよくある事だが、目覚めた時に隣に、別に彼女でも嫁さんでもない綺麗な女性が寝ていれば、それは男なら誰しもが驚くことであるはずである。

 その朝、白銀武はそんな状況に、難儀していた。





 思えばこんなにぐっすりと眠ったのは久しぶりだったかもしれない。
 桜花作戦が終わって、事後処理もあらかた済んで、ヴァルキリーズも今は部隊としてはとてもではないがまともに稼動しない状況でもあるので、ここ数日は割と暇な時間が増えてはいた。
 だが、どうにもあまり深くは寝付けなかったし、夜中にうなされて飛び起きるようなことも度々あって、きちんとした睡眠は取れていなかったと思う。
 しかし、寝てしまった場所が問題だった。
 まさか、冥夜のお見舞いに来てそのままそこで寝入ってしまうとは。
 寝てしまう直前までの事は覚えている。
 思い返すと些かこっぱずかしいことではあるが、冥夜のおかげでなんと言うか、気持ちが大分軽くなったような気がする。
 もしかしたら単に寝不足が解消されたことでそんな感じがしているだけかもしれないが、それならそれでここしばらくまともに寝れなかった自分を、そこまで安心して眠れるようにしてくれたのが彼女であることは間違いない。
 基地へ何も連絡しないまま外泊になってしまったが、それはまぁ、これといった仕事も無いし、夕呼先生的にはたいした問題にはなら無いだろう。
 しかしだ。

 なんで冥夜まで同じベッドで寝ているのか。

 これがまた微妙なことに、武にとって朝起きたら隣で冥夜が寝ているというのは、初めての経験ではなかった。
 だがそれはこことは違う世界……武が産まれておよそ18年間生きた、BETAなんて言うものが存在しない世界での話であって、こちらの世界の冥夜がこんな行動に出るとは考えにくいのだが……。
 しかしまぁ、流石に主観時間で数年ぶりのことではあるゆえ多少驚きはしたが、声を上げるほどではなかったのは重畳。
 さて、ここは「また来る」と書置きでも残して一度基地へ帰るべきか。
 そ〜っと、冥夜を起こさないようにベッドから降りようと動き。

 「……ん……うん……」

 冥夜の声にビクッ、と身をすくませた。
 腐っても鯛か。流石は現代に生きる侍娘。周囲の気配の動きには敏感のようだ。
 これまたそ〜っと冥夜の方を振り返る。

 「ぅ……ん……?」
 うっすらと目を開けた冥夜と、目があった。
 ちなみに説明しておくと、昨日から……と言うか、入院している今の冥夜は後ろ髪を結んでいないし、横髪などのセットも解けているため、なかなか新鮮な姿をしている。
 数秒、そのままお互い停止していたが、冥夜はカッと目を開くとうつぶせのまま勢いよく跳ね起きた。

 「なっ……そなた! 一体なにを……っつ!?」

 そう声を上げるが、急に動いた痛みか、少し顔をゆがめた。昨日から何度目だ。

 「いや、その、なにを……といわれても、な……」

 状況の成り行きを理解できてないのは武も一緒だ。
 少なくとも自分からベッドに入った記憶は無い。流石に無実を訴えたい武だった。

 「あ……」

 そこで冥夜は寝る前のことを思い出し、ぼふんっと言う音が聞こえそうなくらい湯気を出して顔を真っ赤に染めた。
 そのまま挙動不審な動きで「あ〜」とか「う〜」とか唸っている。

 「す、すまぬ……私の早とちりだ……」

 穴があったら入りたい、とでも言うようにボソッとそう口にした。
 そもそも隣で寝たのは自分からではないか。
 起きた時のことに考えがいたっていなかったとは、まっこともって我ながら迂闊である。

 「いや、俺の方こそごめん。まさか見舞いに来て寝込んじまうとはさ」

 元を返せば寝入ってしまった自分が原因か、と思い至り、武も謝罪を述べる。

 「いや……それこそよいのだ……。どうせそなた、あれからまともに寝たことなど無かったのであろう?」

 見透かされていたか、と武は苦笑する。

 「ん……まぁ、な。寝ると碌な夢を見なかったもんで……でも、おかげで昨夜は久しぶりにぐっすり休めたよ。ありがとう、冥夜」

 嘘やお世辞の無い、正面からの感謝を冥夜に向ける武。
 本当に自分は、彼女に……彼女たちに、世話をかけっぱなしだと思う。
 でもなぜか、自分の勝手な想像なのかもしれないが、記憶の中のみんなはあきれたような顔で笑ってくれている気がする。

 『まぁ、白銀だしね』

 『たけるさんですもんねぇ』

 『まだまだ小僧ですよ』

 『あはは、男はいつまでも甘えん坊って言うもんねぇ、タケルぅ』
 そんな、みんなの声が聞こえたようで……そっと目をつぶって目頭が熱くなるのをおさえた。

 「な、なに、気にするでない。昨日も言ったように、私はそなたの力になりたいと思っているのだ。そなたが私を認めてくれるのならば、遠慮なく……」

 少々上ずった声で早口ぎみにそんなことを捲くし立てる冥夜。
 本当に、みんなそろいもそろってお人好しだ、と武は思わず笑ってしまう。

 「ありがとう……でもま、頼りっぱなし甘えっぱなしってのも男として情けないからな。もっともっと、ちゃんとしないとな」

 ふんっ、と自分に活を入れ、表情を改める武。
 ベッドの中で冥夜は「いや、それはそれで私としては一向にかまわないと言うか、むしろ望むところ……しかし、確かにそれでは武の男としての沽券も……」などとブツブツ言っているようだが、流石に武には聞こえていない。
 武は何となく思う。昨日昏睡から目覚めてからの冥夜は、どことなくいつもと雰囲気が違うような気がする、と。

 武としてはその程度でキチンと理解するまでにはいたっていなく、冥夜本人に至っては自分の変化にまるで気づいていないが、確かに変わっていた。
 だが、元の世界の冥夜にはそういう面があったのも事実で、冥夜以外のみんなも表面上の雰囲気などは違っていてもその本質は変わっていなかったことを考えると、この世界の冥夜も内側にはこういう部分を持っていたのであろうと推測できる。
 それが表面化したきっかけは言わずもがな、告白と生存であるだろう。ある意味今の冥夜は、自分を見失っている、ともいえるかもしれない。
 だがまぁ、そんなことをスーパーボクネン人タケルに理解などできるはずも無いのであった。

 「さて、じゃあ俺はいったん基地へ帰るよ。なんつっても無断外泊しちまったからな。特に仕事も無いから平気だと思うけど、夕呼先生になんて言われるか……」

 「そ、そうか。確かに、無断外泊など本来なら罰則ものだな。しかもそなたは救世の英雄だ、皆に対してきちっと範を示さねば」

 武の言葉に自分の中から帰ってきた冥夜が、腕を組みウンウンと頷きながら応える。

 「そんな大したものじゃないさ。俺一人じゃ何にもできなかったしな。あえて救世の英雄と言うなら、それは……」

 今も深い眠りについたままの幼馴染の事を想う。
 いつか起こしてやりたいと。
 これからの自分はそのために歩き、彼女が目を覚ました時にBETAなどいない平和な世界を見せてやるために戦うと決めたのだ。

 その武の表情を見た冥夜は、彼が今誰を想い、なにを見つめているのかを察して、胸の奥にたまらない痛みが走るのを感じた。



















■ALTERNATIVE NEXT ―例えばこんな結末から始まる物語― ■

第二話 「その日の午後」







 涼宮茜は今、少しだけ緊張して歩いていた。
 彼女は現在、帝都にある中央病院へと向かっているところである。
 目的は単純。入院している隊の仲間、御剣冥夜の意識が戻ったということで、見舞いに行くためだ。
 彼女個人とは特別親しい間柄ではないが、班は違えど一時期は同じ訓練部隊でもあったし、彼女が任官してからは同じ部隊で戦う戦友でもあったのだから見舞いに行く位は当然の義務であるだろう。

 いや、正直に言おう。いかんせんいい加減暇すぎだったのだ。

 自分も今、入院こそしていないが怪我人の一人である。怪我をしてるのは左腕と右眼だが、すでにベッドに縛り付けられるほどの怪我でも無いし、もう少しすれば包帯も取れる予定である。
 しかし、だからと言って訓練ができるわけでもなく、所属する部隊も今は開店休業な状態で、何もする事が無いのだ。
 なので今朝方、無断外泊して朝帰りで基地に帰ってきた、部隊でただ一人怪我も無くピンピンしている男「白銀武」が、意識が戻った御剣のために必要なものをもって昼過ぎにまた帝都の病院へ戻るというので、それにくっついてきたわけである。
 ついでに御剣の着替えをまとめるのを頼まれたりもした――――茜の知るところではないが、月詠中尉以下第19独立警護小隊の面々は桜花作戦の成功を見届けた後、すでに横浜基地を後にしている――――流石に男の自分がそれをするわけにはいかないからと。
 とまぁ、そんなわけで遥々帝都まで車でやってきて、適当な駐車場に止めた後、病院に向って歩いているわけである。

 ――――――別に、何を意識する必要も無いはずなのである。

 確かに桜花作戦からの一週間あまり、彼とは一緒に行動する事が多かったのは事実ではある。
 なんといっても部隊内で満足に動けるのは、負傷しているとはいえ自分と、彼しかいなかったのだから。
 なんだかんだで結構楽しかったと思う。
 一人きりでいたのでは、きっと千鶴達のことで潰れかねなかった気がするし、正直、一緒にいてくれて助かったという、感謝の気持ちもある。
 だが、彼は部隊でのポジションを一時預けたライバルのようなもので、目標のようなもので、自分の憧れだった先輩とあっという間に肩を並べてしまった憎むべき敵のようなもので、それ以上でも以下でも無いのである。……はずである。なのに。

 (考えて見れば、こうやって男の人と二人で出かけるなんて、お父さん以外じゃ初めてかも知れないな……む、これってデートって事になったりするのかな)

 などと妙な考えが浮かんで、顔が熱くなるのを感じてしまう。
 男の人といったって、自分と同い年の、まだまだ少年と言えるような年齢の男の子である。しかも、あれほどあからさまな千鶴や同じ訓練部隊出身の隊員たちの心の発露に気づきもしない、鈍感にも程があるような人間。
 まぁ、既に好きな女性がいたわけだからある意味仕方ないのかもしれないけど……。

 (でも、その女性も今では……)

 鑑の状態は既に聞いている。
 言い方は悪いが……死んでしまったのならまだ気持ちの切り替えはついたのかもしれない。自分たちはそうやって、多くの仲間達の死に立ち向かってきたから。
 辛いのは当たり前だ。
 自分だって実の姉の、憧れた先輩の、頼りにしていた戦友の、分隊長としての悩みを共有しあった親友の、死を知らされる度に心が張り裂けそうになった。
 でも、それらはもう帰ってくることはありえないからこそ、ある意味諦めがつくともいえる。

 ――――生きてはいる。けれども意識が戻る可能性は限りなく低い。――――

 そんな中途半端な状態では、どう気持ちの整理をつけて良いのか全然わからないだろう。

 (……なぜだろう。なんだかそういう状況になんとなくデジャヴュのようなものを感じるような……)

 姉の遙が総戦技演習で負傷した時には別に昏睡状態になったりはしなかったし、それ以外じゃ自分の周りで医者の世話になったような人物はいないのだが。
 まぁ、深く気にするようなことでも無いだろう。

 少し前を歩く白銀の背中を見上げる。
 初めて見たときに比べて、大きくなったような気がするのは気のせいだろうか。
 自分は割と女性の中でも小柄な方で、白銀は男性の中でも結構身長も高く大柄な方なので大きく見えるのは当たり前なのだが、なにか、そういうのとは違う大きさを感じる。
 白銀は最初から何かと特殊な人間だった。
 香月博士直属で特殊任務を受け持っていたり、全く新しい機動概念による新型OSを発案したり、その凄まじい操縦技術で単身BETAの群れを相手にして生還したり、成功率のあまりにも低い人類の存亡をかけた作戦を完遂してみせたり。
 そんな特殊な立場の人間である。きっと、この一ヶ月あまりの間にも、自分とは比べ物にならないようないろんなものを背負ったのだろう。恋人の事も含めその一つ一つが、あまりにも重いなにかを……。
 だが人はあまりにも背負いすぎると、簡単なきっかけでポッキリ折れてしまいかねなくなる。
 鳴海孝之が戦死した時、速瀬中尉がそうだった。
 何とか立直ってくれたが、それは同じ立場にいた姉の遙や、それ以外にも仲間達の支えがあったればこそだったのは間違いないだろう。
 だったら、このいろんなものを背負いすぎている少年が折れてしまわないように支える……その役目は同じ部隊の仲間である自分にもあるのではないだろうか。
 千鶴達が生きていれば、きっと懸命に彼を支えていたはずだ。
 それを、今はもう支えられなくなってしまった彼女達に変わり受け持ってあげるのは、別に悪いことでは無い……と思う。

 ――――そう考えれば、なんだかいろんなことに納得いくような気がして来た。うん、それでいこう。

 そう結論を出すと、てててっと早足で進んで武の隣に並んで歩き出す。

 「白銀」

 「ん? なんだ」

 「がんばろう?」

 「ああ……うん?」

 涼宮茜、当年とって18歳。
 「白銀が心配」と言う淡い想いを正当化するために紆余曲折な理屈付けが必要だった。
 乙女であった。



















 白銀武は病室のドアをノックすると、そのまま扉を開けた。

 「ういっす、冥夜。今朝方ぶりー」

 なんとも訳のわからないノリの挨拶をしながら部屋に入る。

 「ちょっと白銀。ノックしたんだったら入室の許可ぐらい待ってから入りなさいよ。御剣とはいえ女の子の部屋なんだからっ」 

 茜のお叱りに武は「そうか……冥夜が眠ってる間はずっとこうだったんで気にしてなかった。ごめんな」と苦笑しながら謝罪する。

 だが冥夜の方は別段それに気を悪くしたような様子も無く。

 「ふむ、そうだな。それよりも私としては『御剣とはいえ女の子』という涼宮の言葉の方が引っかかるのだが」

 「え、あ、ご、ごめんっ。べ、別に深い意味はなにもないんだよ? 言葉のあやみたいなもので……あ、あははは」

 冥夜にジト目で睨まれて茜は咄嗟に言い訳しながら笑って誤魔化した。

 「まぁよい、涼宮も入ってくれ。立ち話もなんだ、タケル、そこにイスがあるから涼宮の分も持ってきてもらえるか。まだ動くと些か辛い身ゆえ、すまない」

 「ああ、気にすんなってこんくらい」

 武は部屋の隅に立てかけてあったパイプイスを二つ、冥夜のベッドの横に広げて茜に座るよう促した。 
 そして持ってきた荷物を横の棚に置きながら説明する。

 「これ、着替えやなんか一式な。……ああ、誤解される前に言っておくけど、着替えの選別なんかは涼宮に頼んだから安心してくれ」

 着替えと聞いて、武が自分の下着など漁ってきたのかと疑念を持ったっぽい冥夜の表情に、あらかじめ注意を入れておく。

 「すまない、色々と面倒をかける。まぁ、医師の話ではもうそれほど長くは入院の必要は無いだろうと言うことだ。近く、容態が落ち着いたら基地へ帰ることになると思うゆえ、着替えなどもそれほど必要にはならないだろう」

 「そうなんだ。良かった、たいしたこと無くて。でもあれだよ? まだ部隊はまともに稼動できる状態じゃないし、病み上がりじゃ本格的な訓練も出来ないだろうから退屈なのはここと変わらないかもよ?」

 実際、自分も退屈から逃げてここに来たわけだし。
 茜は冥夜の状態に安心し、笑いながらそんなことを口にする。

 「そうなのか? そういえば聞き忘れていたが、宗像中尉や風間少尉の容態はどうなっているのだ?」

 色々とゴタゴタ続きだったのですっかり失念していたが、部隊と聞いて桜花作戦前、BETAによる横浜基地襲撃時に負傷した二人の先任たちのことを思い出した。
 確か戦闘後、彼女達も帝都の病院へ搬送されたと記憶している。

 「ああ、そういや教えてなかったっけな。二人ともこの病院にいるぞ。だけどまだ面会は出来ない状態だ。怪我の程度じゃ冥夜よりはるかに大きかったみたいだからな」

 「そうか……」

 その身を案じて黙祷する冥夜。

 「大丈夫だよ、どうやら命に別状は無いらしいから。意識が戻ってリハビリすれば、部隊に戻ることも可能だろうって医者が言ってたよ。ほんと、今の医療技術ってすげぇよな」

 心配であるのは確かだが、あまり暗くなってもどうしようもない。できるだけ明るい方向へ話を振って場を取り直す。

 「そうだね。お姉ちゃんも、両足無くしちゃったのになんだかんだで普通の生活する分には何の問題も無いくらいには直っちゃったしね。きっと大丈夫!」

 茜も武の振りに乗ってくれた。
 ただ、なんとなくその話題は微妙だ。
 冥夜もその辺はわかっているのだろう、務めて明るく「そうだな」と笑顔で返してくれた。

 「ところで御剣。髪、ボサボサだよ? 荷物の中にブラシも持ってきたから、梳かしてあげるよ」

 言いつつ茜は、既に武が持ってきた荷物の中を漁っていた。

 「む、そうか? すまない」

 言われて自分の髪に手をやってみるが、確かに乱れているようだ。

 「いいのいいの。白銀がいるのに流石にそんなボサボサじゃあなんだしね」

 「!?」

 茜のその台詞に絶句する冥夜。
 茜としては別段特別な意味ではなく、ただ単に人に、特に男性にあまりみっともない姿を晒すのは女性として苦痛だろうと言うだけのことであったが、冥夜にとっては「白銀」と言う名前を出されてしまっては特別に意識せざるを得ない。
 考えて見ればまるで気にも止めていなかった。いや、それでも平時であれば身嗜みに気を使うくらいは普通にやっていたのだが、負傷の身ゆえかすっかり抜け落ちていた。
 これでは先ほど部屋をたずねてきた時の涼宮の言葉を否定できないというものだ。
 とたんに武の顔が見られなくなる。
 武がそんなことで幻滅するような人間ではないことはわかっているが、それでもやはり、昨日からみっともない姿を見られていたと思うと、羞恥でどうにかなりそうだった。

 「じゃあ梳かすよ〜。流石にセットの道具とかは持ってきてないから梳かすだけだけどね」

 茜が冥夜の後ろに回って髪へと手を延ばす。

 「あ、ああ、かまわぬ。お願いする」

 髪を梳きはじめてから数刻。
 部屋には茜の漏らす軽い鼻歌だけが流れていた。
 そういうことに関してはまったく出す口の無い武は、そんな二人の様子を何となく眺めている。

 「ん〜、御剣の髪って綺麗だよねぇ、真っ直ぐでブラシもすごく通りやすい……」

 「そ、そうか? まぁ、私としてもそれなりに髪には自信は無いではないのだが……」

 言いつつチラリと武のほうを窺ってみる。 
 そして後悔した。
 こちらを見る武のその目は、しかし冥夜のことを写してはいなかったから。

 ――――武はただぼんやりと茜の言葉に「髪にも持ち主の性質って反映されるのかなぁ」などと考えていた。
 純夏も結構髪は長かったが、あいつの場合はでかいリボンの方に目が行きがちであまり長さを意識したことはなかった気がする。
 嫌でも目を引く鮮やかな赤毛と、感情に合わせてぴょこぴょこ動き回る頭頂部から伸びる一房が、あいつの溌剌とした性格を表しているような気はしないでも無いが。
 そういえば子供の頃、あいつのおふくろさんが散髪に失敗して、前髪まっ平らになったことがあったっけ。
 あの時は指差して大笑いしたんだよな……。
 などと思い出に耽っていると。

 「白銀、なにニヤニヤしながらボーっとしてんのよ」

 ぽんぽん、と手に持ったブラシで武の頭を叩く茜が、目の前に立っていた。

 「ん? ああ、終わったのか?」

 「終わったよ。元々御剣は髪質が良いからね、すんなり纏まるから簡単だった」

 茜はブラシをバックの中にしまいながら応える。
 どれどれ――と視線を向けると、確かに髪は綺麗に整っているが、何となく冥夜は沈んだ様子だった。

 「どうした冥夜? 涼宮に悪戯でもされたのか?」

 「するかっ」

 けんっ、と武の座るイスを蹴ってくる茜。
 冗談だ、冗談。と、フーッと威嚇してくる茜を宥める。猫か、お前は、と心で突っ込みを入れながら。

 「いや、別になんでも無いのだ。気にしないでくれるか」

 「なら、いいんだけど……」

 苦笑いでとりなす冥夜に、そう言われちゃなととりあえず気にしないことにし、それならばと武は、もってきた必殺兵器を取り出した。

 「じゃあほら、どうだ。割と元気なお前じゃ入院中時間を持て余すと思ったからな、こんなん持ってきてやったぞ」


 取り出したものは将棋板と駒一式、ついでに何冊かの教本も見繕っておいた。

 「へぇ、将棋なんて持ってきたんだ。好きなの? 御剣」

 「これは気が利くな、タケル。ああ、将棋はよく空いた時間などに嗜んでいた」

 冥夜もどうやら少し気を取り戻してくれたようで、ふと思いついて持ってきて良かったと武も胸をなでおろす。
 
 「さっそく一局打つか? 涼宮はどうする?」

 「あー、わたしはやめとく。こういう系統はあんまり得意じゃないから……。あはは、おはじきとかなら得意なんだけどね」

 武の誘いに胸の前で手を振りながら丁重にお断りする茜だった。

 「あ〜……」

 「なにカナー? そのものすごい納得できましたって言う顔は〜? もうっ、こっちにしてみれば白銀が将棋なんか出来るほうが意外だよっ」

 笑顔で武にプレッシャーをかけ、ふんっとばかりに剥れてしまう茜。

 「べつに強いわけじゃないけどな。でも冥夜は見た目どおり強いぞ」

 口には出せないが、将棋なんか打つようになったきっかけはたしか前のこの世界での冥夜からの影響だ。
 勝った事などほとんどなかったと思うが、暇な時間とかによく打ってた気がする。

 「と言うわけで冥夜、お前は飛車角落ちな?」

 「うわ、情けなっ」 
 
 ベッドの脇に広げた板上に駒を並べながら、偉そうにハンデを要求する武に茜の容赦ない突っ込みが入る。
 やかましい。最初はそれこそ飛車角金銀桂馬抜きでボロクソに負けてたのだ。
 飛車角落ち程度で勝負ができるようになっただけでも成長したのだ。

 「別に構わぬが、そなたにまだそんなハンデが必要か?」

 同じく自陣に駒を並べながら冥夜が疑問を口にする。
 確かに以前PXで打ったときもそんな感じだったが、何でも標準以上にこなしてしまう武がこの程度のことをこなせないというのも想像し辛かった。

 「ああ、それでもお前に勝てるかは微妙なところだからなっ」

 「いや、何でそう偉そうに卑屈なのかなぁ」

 ふんぞり返って鼻息荒く情けないことを言う武を、茜は不可思議な生物でも見るかの様につぶやいた。

 「ふふ……」

 冥夜は思い返す。
 武のこういうおかしな行動で207Bの皆はその雰囲気を和らげ、チームとして纏まってきたのだ。
 ほんの2ヶ月くらい前のことでしかないはずだが、酷く懐かしい事のように感じて、冥夜は感慨深げに微笑んだ。
 そのメンバーの殆どが既にいない現実に、ちくりと痛みが刺すが、もうそのことで感情を乱したりはしない。

 対局が始まり、最初こそ一手二手とぽんぽんと局面は進んでいたが、中盤に差し掛かって段々と思考時間も長くなってきた。
 ここまでは終始、飛車角落ちのハンデをものともせず冥夜が優勢に事を進めている。
 武も喰らいついてはいるが、やはり先読みのレベルで負けているようだ。
 そして武がまた一手進め、冥夜の手番になった。
 冥夜はふむ、と今の武の一手を吟味し、自分の打つ手を模索する。
 自分の番を終えて、板上を見つめる冥夜をなんともなしに眺めていた武は、そこでふと先ほどの茜の台詞に納得がいった。

 「ああ、本当だ。確かに……綺麗だな、冥夜の髪って……」

 「……? ………………なぁっ!?」

 一瞬何を言われたのかわからなかったが、理解した途端素っ頓狂な声を上げる冥夜。
 いきなり何を言い出すのかこの男はと、きょとんと武を見る茜。
 二人の意外な反応にビックリする武。

 「な、なんだよ。さっき涼宮が言ったことだろう? 冥夜の髪は綺麗だって……」

 「いや、そうだけど……」

 仕方が無いだろう。さっきは違うことを考えていて意識していなかったのだ。
 だが、今こうして窓から入る陽光を受けて輝く冥夜の髪は、確かに綺麗だと気づいてしまったのだから。
 しかし、突然そんなことを言われた冥夜の方はたまらない。
 しかもさっきはそのことで消沈したりもしていたのだ。

 「ま、まったくそなたは……突然、な、なにをそのような……」

 真っ赤な顔でしどろもどろになりながら、焦りを誤魔化すように駒を手に取り、板上にうった。

 「あ、御剣……それ……」

 「え?」

 「二歩……」

 「……あ!?」

 ハッと板上を見る。そこには同じ行に燦然と並ぶ二枚の歩。
 やってしまった。
 初心者でもやらないような失態だ。

 「お、これ、俺の勝ちか?」

 それを見て武が確認する。
 相手の反則で勝ち、というのもなんだかしっくり行かないが、勝ちは勝ちである。

 「こ、これは、今のはナシだ! ひ、卑怯ではないかタケル!? 心にも無いことを口にして動揺を誘うなど……!!」

 「ばっ……心にも無くねぇよ! 本当に綺麗だと思っちまったからつい口に出ちまっただけだ!」

 「う……そ、そうか……」

 挑みかかるように武に詰め寄る冥夜だが、そんなことを言われ、とたんぷしゅ〜っと勢いをなくしてしまう。

 「本当に……いつもそなたは、突然だ……」

 赤くなった顔を見られまいとか、少し俯きながらぼそぼそつぶやく冥夜。

 さて、そんな夫婦漫才を見せられて何となく面白くないのが茜である。
 なんで面白くないのかはよく解からないがなんだか面白くない。
 自然、声にも棘が出てしまうというものである。

 「あーはいはい。仲良いのはわかったから。で、どうするの? 今の手なしにして続けるの?」

 そう促されて将棋板をみる武と冥夜だが、なんだかもうそんな気力もなくなってしまった。

 「いや、よそう。この勝負は私の負けだ。突然とはいえ簡単に動揺してしまった私の未熟さだ。卑怯などと、すまなかった、タケル」

 冥夜はごほんと咳払いをして頭を下げる。

 「い、いや、謝ることは無いけどさ。まぁ俺も反則で勝っても嬉しくは無いし、今回の勝負はナシってことで」

 「そうか……そうだな。タケルがそれでよいのなら」

 そう言ってお互い軽く笑いながら並んだ駒を集め、片付け始める二人。
 ベッド横の棚にそれらをまとめて置くと、冥夜は痛みに少し顔をゆがめながらベッドから降り、立ち上がった。

 「ん? どうした、どっかいくのか? 俺でよければ肩貸すぞ」

 「ああ、いや……ちょっと、な」

 冥夜はちょっと恥かしそうに誤魔化す。 
 しかし、こういう時だけ察しが良いのが武の武たる所以である。

 「ああ、トイレか? まぁそりゃ動けるんだから尿瓶てわけはないよな……あてっ!」

 スパーン! と部屋に小気味の良い音が響いた。

 「白銀デリカシーなさすぎ! いこ、御剣。肩貸してあげるよ」

 「あ、ああ、すまないな」

 茜は振りぬいたスリッパを履き直しながら冥夜に肩を貸し、二人して出て行った。

 「てーなぁ。戦場じゃ男も女もないんだろうが。逆に気を使って意識させちまう方が不味いんじゃねーの……?」

 一人残されそんなことをぶちぶち呟いてみるが、まぁそんな言い訳をしてみたところで自分のデリカシーのなさは確かなようなのでちょっとだけ反省する。
 反省だけなら猿でも出来るのであるが。

  特にする事もなく、何となく窓を開け、窓辺に頬杖を突いて外を眺めてみる。
 そろそろ夕刻にさしかかるという頃合、眼下に広がるオレンジ色の陽に照らされた帝都の街並み。
 これまで何かとその存在には関わって、関わられてきたが、足を踏み入れたのは桜花作戦後、冥夜の様子を見に来たのが初めてだった。
 横浜基地の周囲はガレキの荒野でしかないので、そこが日本なのかなんなのかはあまり感じる事は出来なかったが、ここは確かに日本だった。
 街の雰囲気は、武からしてみれば少々古臭い……ノスタルジックな感じだが、おそらく元々は京都にあった首都をこちらに遷都したというあたりがその理由なのではないかと思えた。
 ここから見える風景だけならば、まさかここが宇宙人と戦争をやっている世界だとは思いにくい。
 しかし、街に入るまでに通ってきた周囲は、街に入りきれない難民が溢れ、近代建築の街並みの外をグルっと難民が作る仮設キャンプの集合体のような風景が取り囲んでいるような形だった。
 街への出入りが制限されているわけでは無いので、比較的自由に買い出しなどで出たり入ったりしてはいるようだが、物資の不足、働き口の不足、男手の不足など、やはり状態はお世辞にも充足してるとは言えないようだ。
 それでも、そこに暮らす人々にも、今は笑顔が多く見えた気がした。
 自分たちがそれをやったのだと思うと、それはすごく誇らしく感じられもしたが、大事なものをこれだけ失ってしまっては、手放しで喜ぶことも出来なかった。

 「風が、出てきたな……」

 今は1月。
 吹く風は身に刺さるように冷たい。
 でも、なんだか窓を閉める気にはなれなかった。










 「ほんと、白銀ってばデリカシーなさすぎだよねっ」

 用足しを済ませた冥夜にまた肩を貸しながら病室へ戻る道すがら、茜はぷりぷり怒っていた。
 実際のところ、デリカシーの部分に関してはさほど気にもなっていないのだが、なんだか腹が立っていた。

 「ふふ……まぁタケルらしいと言えばタケルらしいのだがな」

 冥夜にしてみればもはや慣れ親しんだキャラクターだ。
 そんな子供っぽいところにも惚れてしまった原因はあるわけであるし。

 「もう、そうやって甘やかすから成長しないんじゃないの〜?」

 おっと、矛先がこちらを向いたか? と冥夜は苦笑する。

 「そう言ってくれるな。あれでも大分成長してきたのだぞ? ただ、他の部分に比べてそちらの方面の成長速度が極端に遅いだけで」

 散々な言われようである。
 武が聞いていたら膝を抱えていたかもしれない。

 「まぁ……確かに人間的には大きくなったみたいけどさ……」

 来る時に見上げた広い背中を思い出し、ちょっと顔が熱くなるのを感じる。

 「でも、まだまだだねっ。紳士には程遠いよ!」

 グッと拳を握って突き出す。

 「ははは……ああ、それはそうだな。紳士なタケルなど想像も出来ん。はははは」

 茜の主張がツボに入ったのか、冥夜は笑った。
 紳士な武など、それはもはや武なのだろうか、などとおかしなことを考えながら。  

 そんなことを話しながら病室についた二人は扉を開けた。

 武が窓際に座って外を眺めている。

 それを見たとき、二人は突然強い不安感に襲われた。
 まるで、今にもその場から、瞬きした瞬間にもふっと武が消えてしまいそうな、そんな不安。
 そんなことがあるわけがない、と心で否定してもしきれない、それほど儚げな雰囲気。
 
 「タケル……」

 「白銀……?」

 思わず呼びかけてしまった冥夜と茜に、武はようやく気づいたようにこっちを向いた。
 入口で棒立ちになっている二人に怪訝そうな顔をする。

 「なんだ? どうした二人とも、そんなところで突っ立って」

 そう声をかけてくる武に、もうつい今しがたの儚さは感じられない。
 だが、冥夜の心の不安は消えなかった。
 もしかして武は、このままどこかへ行ってしまうのではないか。
 そんな疑念が沸き起こる。

 「タケル、そなたは……」

 「白銀は……どこかへ行っちゃうの?」

 「どこへ行くつもりだ」と冥夜が問いかけようとしたことを、茜が先に口に出していた。
 茜も、同じイメージを受けたようだ。
 とつとつと歩み寄り、窓辺に座る武を不安そうな瞳で見つめる。

 茜は、これ以上仲間がいなくなる事に臆病になっていた。

 突発的な出来事なら仕方が無いかもしれない。
 しかし、伊隅大尉の様に覚悟の上で別れる事は、もう出来そうに無かった。
 甲21号作戦で、単身囮役を買って出た武を最後まで引きとめてしまったのも自分だし、再三援護を要求したのも自分だ。
 桜花作戦に飛び立っていく皆を見送るのは、とても辛かった。
 正直、武に「御剣を撃った」という話を聞いたとき、自分には絶対に引き金は引けないと思ってしまった。
 軍人としては落第なのだろうが……

 「んん? 何の話だ? そりゃ、任務でどっか行ったりはするんじゃないか? これからも」 

 何の事なのやらさっぱりわからず、きょとんとした顔で頓珍漢な答えを返す武。

 「違う……そういうのじゃなくて……」

 もはや茜は泣きだす一歩手前と言う感じだ。
 その真剣な姿に、それでも武は何を聞かれてるのかわからなかったが、少なくともふざけた答えは出来ないと思った。

 「ん〜、なにをそんなに思いつめてるのかよくわからないけどさ……この世界で俺が帰れる場所なんてもう横浜基地しか……夕呼先生や霞や、お前達のところしかないからな。別に、どこにも行けやしないよ」

 武は冥夜と茜に交互に視線を合わせ笑顔でそう応えながら、何となく、茜の頭に手を乗せなでていた。
 武の言葉と、その、自分をなでる大きな手の安心感に茜はほっと胸をなでおろす。
 すると、途端になんだか気恥ずかしくなってしまった。 

 「な、なにさもう、子供扱いしないでっ」

 慌てて武の手を跳ね除け、ふんっと横向いて剥れてみせる。
 その仕草自体が十分子供っぽいのだが。
 その言い草に思わず武は吹き出してしまった。

 「ぷははは、なに言ってんだよ。もう、泣きそうになってやがった癖に」

 けらけら笑いながら茜の額を人差し指でつっつく。
 それを再び払いのけ茜は。

 「な、泣きそうになんかなってないっ。大体、なんで白銀なんかの事で泣かなきゃいけないのよっ」

 必死に言い返すが、武はまだケタケタ笑っている。

 その光景を見て、冥夜もようやく安心する事が出来た。
 武は消えたりしない。
 それに、もしどこかへ行ってしまうと言うなら、意地でも探し出して一緒についていくだけだ。
 もはや自分の存在する意味は、武と共にあること、武を支えることくらいしかないのだから。

 そう決意を新たにして、冥夜も部屋の中の二人の輪に加わった。
 





ALTERNATIVE NEXT 第二話「その日の午後」 END