12月09日 00:30 国連軍横浜基地 月詠真那自室








 ――。
熱めに設定したお湯が、汗と疲労を洗い流してくれる。
シャワーを手に取り、体の隅々まで洗い清めていく。
湯気の篭る浴室は日々の疲れを癒すのに心地よく、ついゆっくりとしてしまうものだ。
終いに髪を洗い、もう一度、丁寧に湯をかける。







「――ふう」

 ノブをまわして湯を止め、両手を背中にやる。
たっぷりと湯を吸った髪を軽くしぼり、タオルを手にとってそのまま髪をまとめてしまう。髪を乾かすのに何かと時間を要するからだ。
体の水滴も拭き取り、バスタオルを体に巻く。浴室の排水口から水音が聞こえてくる。
そのままの姿で浴室から部屋に戻り、机の上の茶封筒を手にとって裏表を見回す。

「……差出人の名が、ない?」

 椅子に座り、もたれかかってため息をつく。既に日付は変わり、辺りには静寂が満ちている。
軽く首をまわす。これといって目に付くものはない。出向という形でここ国連軍横浜基地に出向いている上に、元々飾り立てる性分ではないので当然ではある。
神代達は家族の写真など飾っているのだろうか? 冥夜様はどうなのだろう?

「……冥夜様……」

 先刻、恐れ多くも冥夜様を叱咤し――あまつさえ、御顔を二度張った。しかし流石は冥夜様、その後すぐにお立ち直りになり、決意を新たにされたようであった。
これならば万事問題ない、と私も安心し、明日に備え休もうと部屋に戻ったのだが……。
机の上に、見覚えのない封筒が置いてあった。宛名がないということは、もちろん正規の手段で届けられたものではない。
果たして、その内容は……

「白銀武が、帝都に?」

 読みすすめてみたところ、沙霧大尉と共に逝ったと思われた、白銀少尉の生存を仄めかすものであった。しかも手紙によれば――あの男は今、帝都にいるというではないか。

この情報は誰が持ってきたのか、出所はどこなのか、そして何よりも、何故私の元に入ったのか。
手元の情報だけでは、これ以上の手がかりを得ることは出来ない。

「……確かめねばなるまい。殿下と冥夜様に対し見事な挺身を成したとはいえ、一度は嫌疑をかけられていた男。
 それに奴は一度死んだと思われたにも関わらず横浜基地に居を構えていた。万一、ということもあろう」

 ――俄かに、背筋のあたりに寒気を感じた。
そういえば、手紙に見入ってしまったせいか服を着るのを失念していた。
席を立ち、入浴前にベッドの上に用意しておいた着替えを手に取る。

「冷えるな」

 時節は既に年の瀬、早いうちに上着を着ねば体調を崩す。
職務の重さを鑑みずとも、そのようなことが許されないのは言うまでもない。
タオルを取り払い、下着を身に着け、上着をまとう。勤務後であるから服装も軍服や礼服といった類のものではなく、軽易な、寝巻きといえるものを選んだ。
 あの者が生きていたとすれば、冥夜様はなんとお思いになるだろうか?
もし――あの男が奸賊で、帝都に忍び込み殿下の御身に何かしようという腹積もりであるならば……

「奴の生存が冥夜様のお耳に入る前に、私が消さねばなるまい」

 私が帝都に参内するのは、ちょうど一週間後。
その時に、白銀の消息とこの手紙の差出人を探してみるとしよう。
奇縁……、願わくば、白銀と殿下、冥夜様、ひいては我々が、良き縁であることを。
















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■ マブラヴオルタネイティヴ 〜きみしにたまふことなかれ〜 

           第四話『躓石縁端』

        From "MUVLUV ALTERNATIVE"
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12月14日 13:25 帝国情報省内第一病棟


 ――昼食を食べ終えて、リハビリの時間まで特にすることがなかったので昼寝をしようと寝転んだのが30分くらい前だ。
看護婦さんが呼びに来て、起こしてくれるから別に目覚ましが必要なわけでもなく、惰眠をむさぼる……いや、体のために必要な休養をとるはずだった。
取り替えてもらった柔らかい毛布で、ゆっくり眠るつもりだった。
しかし。

「……」

「……」

 最初、看護婦さんが早めに来たのかと思った。だがそれは違った。全く完全に違った。
寝てた俺がなんかの気配を感じて、寝ぼけ眼をうっすらと開いた先にいた人は……

(じー)

「……あ、あの……」

(じー)

「あの、殿下……?」

 目と鼻の先、ってのはこういう距離を示す言葉なんだ。きっとそうだ。
そう、吐息がかかるくらいの近さで俺を見つめていたのは……

「白銀、そなたの寝顔……平常とは似ても似つかぬ、やわらかい表情なのですね」

 ――煌武院悠陽殿下その人だった。

「ね、寝顔……!」

 ――ずっと見られてたのかよ!?
寝顔を見られていた、と意識した瞬間、「かぁっ」と顔が赤くなっていく。血の巡りがよくなっていくのもわかる。
――こんなに恥ずかしいとは……

「ああみっともねえ……すいません殿下、俺……涎とか垂れてませんでしたか?」

 話しやすい言葉でいい、と言ってもらったけど、そういうのとは別のところの礼儀とか、粗相には気をつけなきゃいけない。
――っつうか、女の子の前で涎なんて、相手の身分が上とかそんなん関係ねぇな、考えてみれば……

「心配には及びません、私が拭いておきました」

「あ、それはどうも――って拭いたっ!?」

「――!」

 ――やっぱり垂れてたのかよ、しかも拭いたって……!
しかも驚きと恥ずかしさで声が大きくなっちまって、殿下を驚かせてしまったみたいだ。

「あ、すいません驚かせて――」

「よい、大事ありません。しかし何故驚くのです? ――私はそなたの口元を拭ってはいけないのでしょうか?」

「そんなことないですよ! ただ俺が恥ずかしかっただけで……」

 いけないなんてことはないけど、そりゃ驚くだろう、普通。つーか殿下いつからいたんだ……?

「恥ずかしい? 床に伏しているのですから、そのようなことを気にすることはないと思いますが」

「い、いや……そうじゃなくってですね」

「……?」

 殿下は怪訝な顔をしている。
――年頃の男が、寝ている間に、年頃のしかも見目麗しい女性に寝顔を見られて、しかも涎を拭かれた。
殿下はこの状況を「恥ずかしい」とは思わない……らしい。
――世間ズレ……か……? いや、帝王学や礼儀作法の教育が行き届いてて、しかも世俗的じゃないからこそなのか……?

「と、ともかくありがとうございました」

「いえ、このくらいのことであれば容易いことです」

 ――多分、あの侍従長さんがいたらすげぇ怒ってるだろう。「下々の者に殿下御自ら手を下すことなど――!」みたいな。
それが普通なはずなんだけどな。畏れ多いことこの上ない、なぁ…… この間の林檎といい……
 俺は体を起こして、ベッドの近くに椅子を置いて座っている殿下と目線をあわせる。
目の方は日増しに見えるようになってる。多分このまま完治に向かうだろう。左腕もギプスは小さくなっていくし、段々良くなるはずだ。

「……あ」

 そこまで考えて、ふと疑問が浮かんだ。

「あの、殿下……」

「なんでしょうか」

「なんとも思いませんか? 俺の……顔の、傷」

 寝顔から見てるんだ、いや一目見りゃ誰でもわかるに違いないけど、傷に気づいていないわけがない。
デカデカと残った傷跡に、殿下は一言も触れてないんだ。
俺の傷は、人にどう思われる?

「傷、ですか。……消していないことに理由があるのでしょうか、とは思いましたが……
 そなたの傷はあの時に刻まれたもの。私にも縁深き故、そなたが心配するようなことはありません。不覚傷などと思うことはないのですよ。
 むしろ私は、誇らしくすら思います」

「そんな、誇りだなんて」

 そこまで考えてくれてたなんて想像もつかなかった。

「それよりも私は、傷の付け根のところ……白くなった髪が少し跳ねていることのほうが気になりますね」

「跳ね……?」

 そう言って殿下は、俺の額に手を伸ばした。触られてわかったが、確かに一部跳ねてる。
そんなに頻繁に鏡を見るタイプじゃないからな、俺。

「多分、包帯を巻いたクセじゃないすかね……?」

「クセ、ですか。でしたら直しましょう」

 ポーチ(凄い和風だから小物入れって言った方が正しいか?)から櫛を取り出し、それを手に再度手を伸ばす殿下。
い、いくらなんでもそこまでしてもらわなくてもいい。というか恥ずかしくてやってられん。

「あ、あの殿下、じきに体を拭きますしその時自分でやりますから……!」

「動いてはなりませんよ」

 慌てて殿下を退けようとしたが、既に殿下は俺の髪に櫛を通していた。
肌理の細かい櫛が俺の髪を梳かしていく。

 ――すい。 ぴょこん。
 ――すい。 ぴょこん。
 ――すい。 ぴょこん。

「あら……」

 だが、いくら櫛を通しても俺の髪は跳ねてしまう。
結構長く包帯巻いてたしな、櫛だけじゃ無理か。

「多分、お湯が必要なんで……後は自分で出来ますから」

「そうですね、お湯が必要です。少し待っていなさい」

 ――お湯が必要だからこれ以上は結構です、と言ったつもりなんだが。殿下は「お湯が必要だから取ってくる」という選択に出た。
優雅な所作で椅子から立ち上がり、颯爽と部屋を出て行く殿下。
待つこと数分、ポットと洗面器、更にタオルをいくつか持った殿下が戻ってきた。
……殿下が持つようなものじゃない。

「あの殿下? なんだか髪のクセを直すには随分と重装備ですけど……」

「ええ、先ほど廊下で看護の者に鉢合わせ、これから身を清める時間だと聞き及びましたので」

 ――聞き及んだからどうすんだよ!?
ポットからお湯を出し、てきぱきと準備を進める殿下。いや待て、本当に殿下は俺の体を拭く気なのか……?

「熱くは……ありませんね。では白銀、衣を脱ぎなさい」

 脱ぎなさい、じゃないだろっ!?

「いやあの……脱ぐって殿下、ですから……」

「……ああ! そうですね、私としたことが。許すがよい、白銀」

 ――わかってくれたか。そうです殿下、恥ずかしいというかこれはもう倫理上……
将軍とか身分の違いの話じゃない。年頃の女の子が年頃の男の体を拭くなんて、そういうのはないだろう。
きっと殿下も、それを察してくれたはずだ。

「白銀はまだ左腕が満足に動かせないのでしたね。それを一人で脱げなどと……私としたことが」

 ――違ぁぁぁぁうううう!!!
殿下そこじゃないです! 気づくべきなのはそこじゃないです!

「いや違、殿下」

 きつめに絞ったおしぼりを置き、殿下がこっちに近づいてくる。

「さ、白銀、上を脱ぎますよ」

「ですから殿……」

「――私の言うことは聞けませんか……?」
 ……駄目だ、問答無用だ。言い出したら聞かないあたり冥夜とそっくりだ。
――くっそう、はじめて衛士強化装備でみんなの前に出た時より恥ずかしいぞ! まぁ、俺はあの肌の透けた99式じゃなかったから当然なんだけどな……

「そうじゃなくて! 恥ずかしいんですよ!」

「まぁ……」

 ――あぁ、言っちまった。男の口から「脱ぐの恥ずかしい」なんて。
言ったそばから顔が赤くなってるよ俺。もうどうにでもなっちまえ俺。畜生。





















12月14日 13:20 帝都繁華街




「見舞いの品……見舞いの品……」

 白銀武と初めて顔を合わせ、課長やあきらともんじゃ焼きを食ってから二日。
『お友達になるんだ』なんてあきらじゃないが、諸々の連絡がてらに俺も病室に顔を出すことにした。
この時間ならメシのすぐ後でリハビリとかそういうモンもやってねぇだろうし、アポなしで押しかけても大丈夫だろう。
しかし何を持っていけばいいものか。

「繁華街を歩いてりゃなんか見つかると思ったけどな、安直だったか」

 決起事件の余波か、一時は閑散としていた中央通りも、段々と活気を取り戻しつつあるようだった。
ここ数日臨時休業だった商店も、店を開けるようになり……買い物に来る人々も現れるようになった。
多くの店は開いている。つまり問題は……白銀が何を好むかってことだ。
見知った相手なら好物とかもわかるんだが、あいつは何が好きなんだ?
菓子か、果物か。見舞いと言えばそんなところだろうが……

「そこの兄ちゃん! 今日は仕事はないんかい?」

 突然ダミ声が響く。 ――ん? 兄ちゃんって俺か?
歩みを止めて声のしたほうを振り返る。青果店の店主が俺を手招きしていた。
店も中々年季が入っているようで、看板も中々趣のある色――平たく言えば古ぼけている――だ。
果物でいいか、と心の中で決め、店のほうへ寄っていく。

「……ああ、実は今日は非番でね」

「そうかい、どうだい? 今日は珍しいもんがあるんだよ」

 そう言って店の商品を指差すおっさん。そこには……

「へえ、バナナかい」

 札には天然物と書いてある。

「確かに珍しいな……でも値が張るんだろ?」

「まぁ、天然物だからねえ。滅多なことじゃ手に入らないし、これでも勉強してるんだがねぇ」

 この情勢下だ、まともな営業だって楽じゃないだろう。
それが天然物となりゃ、ちょっとした贅沢品だ。

「そうだな、ちょうど見舞いに行くんだし……一房もらおうかね」

 見舞い、という言葉を聞いて、威勢の良かったおっさんの表情が陰る。
この時勢、見舞いと言えば大抵の場合は、BETAとの戦闘における負傷者だからだ。

「見舞い? ――友達かい?」

「友達……かねえ」

「つーか兄ちゃん、今日非番で見舞いって――何やってんだい?」

 バナナをビニール袋に入れながらおっさんが尋ねてくる。

「ん……まぁ、ほら、あれ」

 俺は言葉を濁して御所の方角を示す。斯衛軍です、なんて名乗るもんでもない。

「――軍人さんかい!? こりゃすまなかった、お国の為に命張ってる人に金なんて……持ってってくれ!」

 恐縮して、おっさんは袋を突き出した。
――こうなるから身分は明かしたくない。年が上になればなるほどこういう傾向は強い。じじばばの軍贔屓は異常だ。
爺さんや婆さんに拝まれるほど俺は人間できてないっつーのに。

「いや、そんなのは良くないって。ちゃんと言い値で買わせてもらうよ。前線も銃後も変わらないんだからな」

 ――実際、今の所俺だって銃後だ。いつ前線行きになるかわかったもんじゃないけどな。

「そんな、ねぇ……」

「いいからいいから、ほら、金」

 渋るおっさんに金を渡し、店を後にする。メインストリートである朱雀大路を抜ける風は冷たい。
コートを着なおして、歩みを再開する。……課長にならってコートを着るようになって結構経つなぁ。
――軍の制服、どこやったっけ。まぁいいか。

「もう幾つ寝るとお正月、ってか。俺が生きてる間に安穏な正月は来るのかねえ」

 ――いや、そのために戦ってるんだな。帝国軍も国連軍も、米軍も。もちろん、世界中の人々がだ。
俺もその時できることを全力でやる。これしかない。

「目下俺ができることは……白銀武の見舞いだ。ここはひとつ全力でやろう。さぁ行くぞ剛田城二」

 ふう、と深呼吸をして、俺は御所へ向かって走り出した。
バナナが入ったビニール袋がガサガサと音を立てたが、そんなことは気にならなかった。
待っていろ白銀武、この俺が特別うまいもんを食わせてやるからな。














12月14日 14:00 帝国情報省内第一病棟



 ――ふき、ふき。
温かいタオルが、俺の背中を這っている。
俺はベッドから出て、さっきまで殿下が座っていたイスに腰掛けている。
ちなみに上半身はまっ裸だ。着ていた患者衣は殿下によって丁寧にたたまれベッドの上にある。……暖房が心地よく効いてるんで寒くはない。ただ……、
心がむなしいぜ。

 結局、俺は観念して上を脱ぎ……殿下に背中を拭いていただいている。
何をするでもなく窓の方を見る。もうすぐ西日が差し込む時間だ。

「白銀、かゆむところは?」

「……ないです、大丈夫です」

 おかゆいところございませんか、ってシャンプーじゃねぇんだぞ。
やんごとなき御身分は世俗に汚されてない……これは喜ばしいのか、そうでないのかわからなくなりそうだ。
……ときたま触れる指先の柔らかさが、やたらムズムズする。

「そうですか、では前を……」

 殿下はそう言って、俺の前に回る。抵抗は無駄なのがわかったんでもう何もしないが……
やはり恥ずかしい。――しかも吐息が胸板にかかるとぞくぞくする。
どこから拭かれるのかと思っていた矢先――

「当然と言えば当然でしょうが……、やはり、鍛えているのですね」

 ――そんな事を言いながら、殿下の手のひらが俺の胸に触れた。

「――ッ!」

 ――さわられた! 胸筋をさわられた!
急に触れられたんで何が起きたんだかわからなかった! なんで急に触ってくるんだ!
慌てて両腕で体を隠して、抗議する。

「でっ――殿下!」

「まぁ……」

 一連の俺の動作を見て、殿下は口に手を当てて驚いたしぐさを見せた。

「白銀、そなたの所作……まるで婦女子のそれですね」

「……婦女子……」

 ……はあ。
――もう、いいや。勝てない。勝てないどころじゃない、勝負にならない。きっとこの人どこまでも素なんだ。
いちいち目くじらを立てるからこうなるんだ。きっとそうだ。

「背中だけで大丈夫です殿下、前は自分で拭けますから……」

「いえ、乗りかかった船と言うもの。如何な務めでも、最後まで果たしてこそ」

 最後の抵抗も粉砕された。なんだか殿下は使命感に燃えている。
殿下がまた俺の体を拭き始めた。肩、胸、腹……
まんべんなく拭かれる。人に拭かれるのは自分でやるよりくすぐったい。

「ふう、あとは……」

 殿下が持ったタオルが、俺の顔にのびてくる。首と顔を拭いて終わりにするつもりなんだろう。
流石に、下のほうまで……というのは断った。何があるかわかったモンじゃない。

「白銀、顔を拭きますから、目を閉じなさい」

 言われるがままに目を閉じ、温かいタオルの到着を待っていると……

 ――がちゃり。
タオルが俺の顔に辿り着く前に、ドアノブをひねる音がした。……もしや侍従長か? それだと俺命ないぞ……?

「おい、俺だ。見舞いに来てやっ――」

 ――この声は……!?

「苦しゅうない。剛田、白銀に何か用ですか? しばし待つがよい、すぐ――」

「……あ……あ、殿……白銀……裸……?……」

 目を開けて剛田が入ってきた方を見る。
――はたして奴は持ってきたビニール袋を落とし、俺の方を指差して……プルプルと震えていた。

「……? どうしたんだ剛……あぁっ!?」

 ――まさか、俺と殿下を何か勘違いしたか!? いやあの顔は間違いない、何か誤解してる!

「おい剛田、違――」

 俺が事情を説明しようと口を開いた直後、剛田は直立不動の敬礼をして、
「大事の最中、大変失礼致しましたッ! 失礼致しますッ!」

 ――バタン!
景気よくドアをたたきつけ、凄い速さで部屋から出て行った。

「――大事ってなんだよ、剛田……」

 がっくりとうなだれる。剛田、お前やっぱりどこ行っても剛田なんだな……
騒動の本人はというと、涼しい顔でタオルを濯いでいる。

「剛田も、白銀に劣らず面白い男ですね。しかしあの者、どのような用があったのでしょうか……? 白銀、心当たりはありますか?」

「……いえ、まったく」

 ――殿下、俺思うんです。一番面白いのは、多分俺でも剛田でもなくて、貴女なんじゃないかって。
























12月15日 19:30 帝国情報省内第一病棟



 日付が変わって12月5日。気がつけば12月も半分か……。
昨日は昼間から殿下の強襲を受けたり剛田の誤解を招いたりしたが、打って変わって今日は静かな一日だった。
おかげで昼間はたっぷり寝れたし、リハビリにも気合を入れて挑むことができた。
……剛田の誤解は後でといておかなきゃな。

「目薬さえ忘れなければ、目はもう大丈夫かな? 後は腕、っつーか指だな。繊細さを取り戻さないと……」

 娯楽は『元いた世界』よりも劣っている、というか月とすっぽんだが、その代わりか……医学の発達具合がすげぇ。
普通、というか『元いた世界』で腕を失えばそれっきりだが、『こっちの世界』では課長の言ってた通り、骨折程度の扱いで治療を受ける。しかも腕がくっついて帰ってくる。
しかも、同じ骨折でもこっちの世界のほうが遥かに治癒が早い。薬や治療法の違いなんだろうか?

「まぁ、治るのが早いのはいいことだよな。どれだけ体がなまってるか想像もつかないし、はやく復帰したいよ」

 一人でいる時間が長いと、自然と独り言も増える。……寂しい発見だ。
でももう夕飯は済んじまったし、実際後は体を拭いて寝るだけなんだよな。

「体を拭く、か。……今日は大丈夫だよな」

 定時になれば俺を担当する看護婦のおばさん(お姉さん、ではなかった)が来てくれる。なんとなく京塚のおばちゃんに似てる人だ。
――ああいう人なら特に頓着はない。向こうもそういうところをわかって接してくれるからやりやすいんだ。

「怪我の治療には、安穏な休息が一番」

 ――この戦時下では、ちょっと不謹慎か? でも、今は休むよりほかに手がない。
焦燥がないといえば嘘だが、今はそんなことを考えていても仕方がない。
といっても、冥夜や沙霧大尉の表情は脳裏に焼きついているわけで。

「……堂々巡り、ってやつか」

 ……一人だとやっぱり気が滅入る。その点、207での暮らしは良かった。あまりプライベートは尊重されなかったけど、その分の賑やかさがあった。

 ――コンコン。

 こんな時間に来客があるわけがない。
人恋しさでノックの幻聴かぁ、俺は自分が思っていた以上に寂しがり屋らしいな。

 ――コンコン。

 反応しないでいたら二回目のノックの音がした。
幻聴じゃなかった。こんな時間にいったい誰だ? ……あ、看護婦さんか?

「……どうぞ」

「お邪魔しま〜す」

 遠慮がちにドアを開けて入ってきたのは、看護婦さんじゃなく帝国の制服を着込んだ小柄の少女。確かこないだ剛田と一緒に来た子だ。名前は……

「ええと、伊隅、あきらさん?」

「そう、伊隅あきら。こんな時間にごめんね、でもこういう時間じゃないとリハビリとか忙しいかなと思ったから」

 伊隅さんは申し訳なさそうに言いながらも、俺が椅子を勧める前に、自分で椅子を持ってきてちょこんと座った。
――こやつ、できる。

「ええと、これお見舞いだよ。ばなな。街に出てたから……」

 椅子に座った彼女は、カバンからいそいそとバナナを取り出した。
――昨日、剛田も持ってきてくれたな。まだ食べきってなくて冷蔵庫に入ってるけど、どうしよう。
つーか、今帝都ではバナナが流行ってんのかな。

「あ、どうもありがとう。とりあえず冷蔵庫に――」

 俺がそう言うと、彼女は元気よく「うん!」と返事をして部屋に備え付けの冷蔵庫にそれを持っていき……、
ドアを開けると同時に、あ、と声を漏らした。

「ばなな、あるね」

「ああ、昨日剛田が……」

 持ってきてくれたんだよ、と言う前に。

「うわーヤだ! 城二と被るなんてヤだ! ボクは見てない! 城二がボクと同じものをボクよりも早く持ってきたなんて知らない!」

 バナナを冷蔵庫に押し込んで元気よくドアを閉じ、剛田の悪口をならべ始めた。
モッサリヘアだの不潔だの不貞だの童貞だのストーカーだのとひどい言われようだ。
――この子、何しに来たんだ……?

「……あの、伊隅さん?」

「あっ! そうだ、ボクお見舞いに来たんだよ。病院生活はきっと退屈だと思ったから」

 ――いえ、普段の生活よりスリリングです。

「……なるほど。ありがとう、確かに今日は誰も来なかった。やっぱり一人でいるよりいいね」

「そうだよ、人は多いほうがいいんだ。一人より二人、二人より三人。そうそう白銀くん、ボクのことはあきらでいいんだよ。その方がいいし……
 ホンネ言うと伊隅さん、ってくすぐったいんだ。そんな風に呼ばれたことなくて。その代わりボクも武って呼ぶけど、いいよね?」

「え、つっても俺まだ全然伊隅さんのこと知らな」

「あきら」

「伊隅さ――」

「あきら」

 むっ、と顔を寄せて、名前で呼ぶことを強制してくる。……かなわねえ。

「――あきら」

「なに?」

 ――俺はこの世界に来て、207の皆を「冥夜」とか「委員長」とか呼んだ。あいつらが感じただろう違和感……今の俺ならすげぇよくわかる。
すごい馴れ馴れしい。いや、悪いわけじゃないけど、なんつーか、うん、あの時の俺は阿呆だった。普通は苗字にさん付けだ。これが紳士淑女の交友。
次からはこうやって呼び方を指定されない限り、どんな交友関係だとしてもさん付けを心がけよう……。

「――で、あきら、お見舞い嬉しいんだけど、実はもう消灯近いんだ。っつーか、もう面会時間過ぎてなかったっけ?」

「うん、でもボクと城二は鎧衣課長から許可を貰ってるんだよ。ほら、これフリーパス」

「――鎧衣左近じるし? 真面目なんだか不真面目なんだか……」

 ――伊隅、いや、あきらが取り出して見せてくれたのは、パスケースの中に入っていたテレカ程度のサイズのカードだった。
免許証みたいに顔写真が貼ってあって、データが書き込まれ……
赤い太字で『鎧衣左近じるしの白銀部屋立ち入り許可証』。……ジョークなのか?
よくよく考えれば、殿下も結構時間考えずに来てるんだもんな。先の事を考えた上で、ってことか?

「だから武の邪魔でなければここにいていいんだよ」

「……へー。ところで、これを発行した鎧衣課長は? あの日以来、ここに来ないけど」

「詳しいことはわかんないけど、よくわかんないけどあの人なんかゴタゴタしてるみたいだよ。城二なら詳しいんじゃないかな? あいつ直属みたいなもんらしいから」

 ――用事がなければ来ない、か。そりゃそうか。翻せば……あの人が来なけりゃ平和なのか。
あの人のことだから、俺の完治予定にあわせて、きっと何か無理難題を持ってくるんだろう。

「そっか、じゃあ特に目立った動きはないんだ」

 俺が動けない時に大規模な作戦が展開されました、なんて冗談じゃないからな。

「作戦とか? そんなにおっきい話は聞いてないよ。……ボクに開示される情報レベルが低いからかもしれないけど」

 足をぱたぱたと上下させながらあきらは答えた。

「あ、帝国の情報レベルかぁ……。そういや俺、そういう手続き一切やってないぞ。一応、機密は聞かせないでくれ」

「わかった。でも多分、武の存在が帝国のすごい機密だと思うよ。殿下がいらっしゃる位だから……。鎧衣課長も何かと根回しをしてるらしいし。あ、これは城二の受け売りなんだけどね」

 ――いや、だからそういうことを話すべきじゃないんじゃないか? 言ってることとやってること違うし。
実際帝国で働くにしても、俺にはどの程度の情報開示がなされるんだろう?

「というか、その辺の説明って城二がするんじゃないの? あいつそういう仕事だと思ってた」

 ――剛田が、連絡の、仕事?

「あー……」

 あいつ、昨日……そういう用事で来てたのか。

「――そうか、そうだったのか。悪いことしたな……いや、別に俺は何もしてないんだが……」

「へ? 城二、武になんかした?」

 あきらの頭の中では、俺が剛田に迷惑をかけるのではなく、剛田が俺に迷惑をかけるのが前提らしい。
真面目そうに見えたけどな、あいつそんなに信用がないんだろうか?

「いや、俺がさ。昨日剛田来たんだけど、ちょっと色々あって」

 殿下に体を拭かれている最中を目撃されて誤解されました、なんて口が避けても言えないからな。うまくお茶を濁さないと……

「――? 殿下がどうなさったの?」

 ――口に出てたァッ――!?

「い、いやなんでもない。とにかく昨日俺と剛田はすれ違っちまったんだ」

「? ヘンなの」

 追求されたらどんなことになるか。向こうにもこっちにも妙な気はなかったものの……
露見したらとんでもないことになるだろう。ここは鋼の意思で口を塞げ、白銀武。

「露見したらとんでもないことになるんだ? 大変だね。でもボクは聞かないから安心してくれていいよ」

 また口に出てたァッ――!?

「……う、うん、黙っててくれ」

「任せてよ、ボクは口が堅いんだ。……ところでさ、あぁ、やっぱりいいや、気にしないで」

「ん……? ああ、傷?」

 自分で傷を触りながら答える。
あきらはここに来てからことあるごとに俺の顔を見つめていた。多分、傷のことが気になったんだろう。
こないだあきら達が来た時、俺はまだ包帯を巻いていたからなあ。
どこまで知ってるのかわからないが……多分、この傷が決起事件の折に負ったもんだってのは察してるんだろうし。
殿下は全く気に留めてない風だったが、あきらはやっぱり気になるかな?

「あ、ごめん! 触れない方がよかったよね」

 心底すまなかった、といった雰囲気で謝るあきら。そんなに畏まらないでいいのに。

「いや、そんなに恐縮しないでくれ。手術の際の課長の指示で、とにかくまずは戦術機の操縦に支障のないように、ってことだからさ。
 左目の擬似生体移植のこともあったし、後回しなんじゃないかな。……それに、上手く言えないけど、この傷はそうそう気楽に消すべきじゃないんじゃないかとも思うしさ」

「……うん、ボクも上手く言えないけど、軍内にも体に傷のある人は多いから気にしなくていいと思うよ」

「ははは……それ、ちょっと的外れじゃないか?」

 励ましになっているようななっていないような言葉を受けて、俺とあきらは笑った。
そのまま、国連軍の軍規と帝国軍のそれとの相違点とか、出される食事の質の話とかで結構盛り上がった。

「……あ、もうすぐ9時だね。寝る?」

 何気なく時計に目をやったあきらの言葉で、消灯時間の9時が近づいていることに気づいた。
――楽しい雑談は時間の流れを感じさせない。世界が違っても、そういうところは同じなんだな。

「あ、うん。その前に体拭くけど」

 昨日はそれでひどいめにあった。いや、素晴らしい体験をしたのか? ともあれ、もう自分で拭けるさ。

「ふうん。じゃあ、ちょっと待っててよ」

「――? うん」

 あきらがそう言って部屋を出ていく。帰るんじゃないのか? 何しにいったんだろうな。
――ああ、トイレか? そうだよな、女の子がいちいち「ちょっとトイレ」なんて言わないもんな。
よしよし、段々俺も察しが良くなってるじゃないか。
 あきらは、それほど間をおかずに戻ってきた。
――タオルと、ポットと、洗面器を持って。

「じゃーん! 看護婦さんでーす」

 ――なぜ、どうして、こうなる? 看護婦さん職務怠慢じゃないの!?

「……取ってきてくれてありがとうございますそこに置いておいて頂けますか」

「――? なんで敬語なの? さぁ上脱いで。背中拭くよ」

 言っているそばから、あきらは準備を始めている。まずい。このままでは昨日の二の舞だ。

「いや、違うだろ、その流れはおかしい」

 昨日の今日でそんなことがあってたまるものか。俺は自分で拭けるんだぞ。

「へ? いいよいいよ気にしなくて。左手だってまだ万全じゃないんだから」

 そう言いながら俺の患者衣の結び目に手を伸ばすあきら。――殿下より迅速だと!?
その手をやんわりと、しかし内心では必死に遮りながら言葉を返す。

「だからな、年頃の女の子が」

 ――しかしあきらは退こうとしない。

「そんな関係じゃないんだから気にしないでいいってば。ボクも役に立てることを証明しておかないと!」

 だから、どうしてこうよくわからない使命感に燃えるんだ!?

「……わかった、わかったからとりあえずその手は離してくれ。結び目くらい自分でほどけるよ」

 基本的に患者衣は怪我人の着用も前提にしてるから着易く脱ぎやすい。甚平みたいなつくりでズボンはゴム。着心地も実にいい。
つまり両手がふさがりでもしない限り、脱がしてもらう必要なんてないんだ。

「……どうしたの? 脱がないの?」

「――気恥ずかしいからむこう向いててくれないか」

「脱いだらおんなじだと思うけどなあ」

 ――そう言いながら、あきらは後ろを向いた。
あまり抗う気にならなかったのは昨日のせいか。それとも知らず人恋しかったのか?











「お客様おかゆいところございませんか?」

 ――俺はさっきまであきらが座っていた椅子に座り、あきらに体を拭かれている。
昨日に引き続きの状況のせいか、段々と羞恥も薄れてきたような……。

「特にないです」

「かしこまりましたー」

 あきらの手際は、殿下と比べるとちょっとばかり荒い。
結構ごしごしと力を入れてこするので、たまにつめが当たってちょっと痛い。

「武の背中は広いなぁ」

「――そ、そうか?」

 どきりとすることを平気で言う。段々、『伊隅あきら』はそういう子なんだなとわかってきたが、まだ慣れない。
――そりゃそうだ。出会って二回目で体を拭いてもらってるんだから。関係が飛躍しすぎなんだよ。

「うん、衛士の修練課程だけじゃないでしょ? 入隊前から鍛えてるんじゃないかな。いい心がけだよね」

「――あ、あぁ。ちょっと照れるな」

 ――それは、多分、『前のこの世界』での訓練の成果だろう。
そうか、昨日殿下がわざわざ触れてきたのも、そういうことを感じ取ったからか?
確かに、そうでなきゃ体に触ったりはしないよな。恋人なんて関係じゃないんだし。……っつーか、俺もしかして不敬だった?

「はい背中終わり。前むいてー」

 ぴしり、と軽く背中を叩きながらあきらが言う。

「はいはい、どうもありがとうございます」

 投げやりに言葉を返してあきらと向き合う。昨日と全く同じ構図だ。
あきらは一度床に置いた洗面器でタオルをすすぎ、お湯を新しくして戻ってくる。

「こまめにお湯換えた方が気持ちいいもんね。さぁほら拭く――わっ!」

 ――急に目の前であきらがつまづき、体勢を崩したまま俺のほうに突っ込んできた!
何も無いところで? なんて考えてる余裕はない! とにかく手を出して受け止めてや――

「――っと!?」

 抱きとめられるだろう、と思っていたがダメだった!
結局、胸に飛び込んできたあきらを支えきれず……

「わわわわわ」

 ――どん。
右手であきらを庇ったのと、怪我した左手を反射的に庇って前に出したせいで……
俺は、あきらの腰に両腕を回して、抱きしめたような感じになって転んでしまった。

「わ、ごめん武! 手、大丈夫!? ボクそそっかしくて……」

「いや大丈夫……それよりそこどいてくれ、誰かに見られたら変な誤解されるし」

 昨日の剛田みたいな状況になったらたまったもんじゃないからな。実際背中を打ったくらいだし問題ない。
とにかく早くこの押し倒されたような姿勢から戻ら――

 がちゃり。

「よう、俺だ。今度こそ――」

 ――ああもう最高のタイミングだなお前は!

「あ、城二も来たんだ? ちょっと待って今は武の――」

 ――しかもあきらのやつ、立ち上がる前に剛田に挨拶してるし! だから早くどけってば!
あお向けに倒れた姿のまま剛田と眼をあわせる。申し訳なさそうな顔をしていた。

「……すまん、お楽しみのところ邪魔したな」

「いや待て剛田、昨日もそうだったけど俺は」

「言うな、俺がむなしくなる。……さらばだ!」

 バタン! と昨日よりも盛大にドアを閉めて、剛田は去っていった。続いて廊下を駆け抜ける足音。
……あいつとは一晩語り明かさないといけない気がする。

「? 城二なんかヘンだったね」

「……ああ、変だったね」

 こいつも、なんで剛田が誤解したのかわかってないらしい。――俺の周りの女の子は、皆鈍いのか?
いやあ、そんなことはないはずだ。……じゃあ、なぜ?
……そんな思考をめぐらせているうちに、あきらは立ち上がった。落としたタオルを拾いなおし、そのまま洗面器の方に戻る。

「さて、気をとりなおして前を拭くよー」

「いや、もう遅いし自分で拭くからいいよ。下の方もあるしさ」

「――そう? 惜しいなあ。でも武も寝なきゃだからね、仕方ないね。じゃあボクは帰るよ。おやすみー」

「ああ、おやすみ」

 一度手にとった洗面器具を俺の近くに置きなおし、あきらも部屋を出ていった。
――急に部屋が静まりかえる。火が消えたみたい、ってのはこういうのを言うんだな。

「……さて、ちゃっちゃと下を拭いて寝るか」

 体拭いてもらえるのはありがたいけど、二度手間なんだよなぁ……。
ズボンのゴムに手をかけながら、明日に思いを馳せる俺でした。
























12月16日 05:00 帝都城内 正殿 松の間前廊下



 明朝まだ空が暗い中私は帝都に入り、御所を訪ね最高位の儀礼を執り行う場である松の間を目指した。
今日は殿下ご生誕の日。殿下は城下に赴きになり、民草の前に御姿をあらわしになるのだ。
だからこそ、殿下がお忙しい時間になる前にお祝いの言葉を奉じ、あわよくば手紙の真偽や白銀について尋ね申し上げようと思っていたのだが……

「……遠路はるばるいらっしゃった所を申し訳ありません、月詠中尉」

「そうですか、既に殿下はご出立を」

「はい、殿下は今年は例年になく精力的にご公務にお励みなさっていらっしゃいまして……」

 私を迎えたのは殿下ではなく、留守を預かる侍従だった。
侍従の者が言うには、殿下は既に街頭でのお披露目に備え、侍従長や警護と共に準備なさっているらしい。
例年ならば、この時間に拝謁を賜ることが可能だった。だが今年は――

「決起事件のこともある。殿下の御心はお察しするに余りあるな――」

 ……しかし、どうしたものか。

「月詠中尉、殿下になにか託がありましたら、私が――」

「ご心配召されるな、殿下のお耳に挟むようなことではないゆえ」

 侍従の心遣いに感謝し、私は松の間を後にする。廊下にはまだ人気も無く、私の足音が良く響く。

「いつにも増して厳粛な……荘厳な佇まいだ」

 1998年の京都陥落の後に移された我らが新たなる帝都は、対BETA戦を前提とした戦闘都市でもある。
太古の平安の都にならい条里制を敷き、緊急時にも即応できる体制を目指したのだ。
しかしそういった機能性や無骨さよりもむしろ気品を感じるのは、ひとえに殿下の御存在のおかげといえるだろう。

「しかし、当てが外れてしまったな」

 殿下から情報を頂くことが不可能であるとなると、帝都内の病院を全て当たるしかないのだろうか?
――いや、そもそも奴は「白銀武」の名で入院しているのだろうか?
……神代達も連れてくるべきだったか。
 歩みを進めながら、思考をめぐらせる。
殿下がお暇になられるのは夜分遅く。それからお話を聞いて、というのでは遅い。
とはいえ、全ての病院、全ての病室を――というのでは非効率に過ぎる。

「――どうしたものか」

 とりあえず城下で情報を集めようと思い立ち、城を出ようと御門にさしかかった時――

「これはこれは月詠中尉殿、お久しゅうございますなあ」

 正面から、やたらと腰の低い、脂ぎった男の声がかかった。

「は……」

 顔を上げて声の主を確認する。この男は……
――帝国の重鎮、護堂中将だ。
後ろに2人の直衛を連れ、正に参内しようとしていたのだろう。

「はっ、ご無沙汰致しております!」

 敬礼で答える。中将という身分でありながら私に敬語を用いるこの男、中将とは名ばかりの……
沙霧大尉も、このような輩をこそ討ちたかったであろうに。

「いやいや、下々の目もありませぬ故、そのように形式にこだわらずとも」

「いえ、則と言うものがございますので」

「流石は月詠中尉、殿下が御心をおかけになられている理由も察しられようと言うもの。私は奸賊どもの後始末でてんやわんやの日々ですが……
 して中尉、横浜基地へ出向している貴女の此度の参内、ご用のおもむきは?」

「は、例年通り、殿下にお祝いの言葉を奉ぜんがため……」

 ――白銀の名などおくびにも出さずに答える。
このような、帝国に巣食う膿の権現であるかのような男に、教えられるものか。
 中将が言っている奸賊とは、沙霧尚哉大尉を始めとした決起部隊のことだ。
口を開けば忠君愛国を口にするこの男、実際は玉座の後ろに隠れ政敵を排除し、利権を貪っているに過ぎぬのだ。
殿下が箱根に脱出なされた時、勅命を騙って即時投降を命じたのも、おそらくはこの男だろう。
なぜこのような男が中将などという地位にいるのか? それはひとえにこの男の財力と、血筋……
彩峰萩閣中将閣下が失脚なされたことも、この男と無関係ではないのかも知れん。

「殿下にお祝いのお言葉を?」

「はい」

「――はて? それでは、私が差し上げた文はお読みになられておらぬかな?」

「な――」

 中将の顔には、にやついた笑みが張り付いたままだ。眼は笑ってはいない。――狸めが……
まさか、あの手紙の差出人がこの鯰であったとは。
私が言葉に詰まるのを愉快そうに眺め、中将は言葉を続ける。

「いやいやお気になさらず。中尉の、情報を胸に留め口外しまいとするお志は実に立派であらせられますなあ」

「……お褒め頂き、感謝の極みにございます」

 言葉の隅々に、「してやったり」といった含みが漏れているのがわかる。

「それで中尉、私に聞きたいことはございませんかな? 私の知る範囲ならば何なりとお答えしましょうぞ。
 なにせ中尉は城内御庭番、月詠家の若き精鋭。この国の行く末を背負うと言っても過言では――」

 なにかと世辞を並べるこの男、「自分の知る限りの情報」などと抜かしているが……
この男の知る限り、などと言えばそれこそ御所の予算から侍従達の月経周期まで出てくるだろう。
つまるところ、この男はあの手紙を出した張本人で、白銀の情報を握っている。その上で、言外に見返りを求めているのだ。
どうせ、自分の率いる派閥に私を、ひいては月詠の家を引き入れたいのであろうが――

「それではお尋ね致します中将閣下、御手紙の内容……真実にございまするか」

 器用に眉を動かして「おや?」と表情を作り、中将は答える。

「はて、手紙? なんのこと――いやいや失礼。もちろん、情報は事実。中尉の探している白銀とかいう男、情報省の病院にいると聞きましたなあ。
 風の噂によれば、我らが煌武院悠陽殿下も足繁く通っておられるとか?」

「殿下が……?」

 殿下が白銀のもとに? 箱根でのやりとりをお聞きする限り、殿下は白銀をお気に召していたようだが……
しかし白銀の元にお行きになられて平気なのだろうか?

「白銀武は、危険人物ではないのですか?」

「私は情報省に嫌われておりますからなあ。詳しい事は……」

 そうか、情報省にはあの鎧衣課長がいる。そう簡単に古狸を招き入れはしないだろう。
――とすれば、白銀を手引きしたのは、もしや……?

「ご満足いただけましたかな? 中尉」

 貴様の胸中など見透かしている、と言うかのように中将は私の目を覗く。

「……感謝の極みにございます」

「いえいえ、私はただお国のためを思って働いておりますゆえに――」

 日本のためを第一に思う男が、決起部隊に対して殿下を騙り「即時無条件降伏」などと吐き捨てるのか。

「それでは中将閣下、これにて失礼致します」

 白銀の所在が掴めた今、古狸に構っている暇などはない。

「おや? 中尉は性急でいらっしゃいますなあ。いかがです? 私と一緒に殿下ご生誕の式典、また晩餐会に出席など?
 私は中尉を迎え入れる準備はいつでもできておりますが」

「折角のお言葉ですが、一介の中尉など引き入れようと、宮中のまつりごとには何の利益も生まれないことと愚考いたします」

「一介の中尉、と? はは、中尉には適いませんなあ! ええ、ええ、結構ですとも。中尉の心が変わる日を私はいつまでも待ちましょうぞ。
 部下としてではなく……例え閨の伽でも結構ですとも! いやむしろそちらのほうがよいかな? あっはっは!」

 去り際に卑猥極まりない台詞を吐き散らして、中将は宮中に姿を消した。
――奸賊め。殿下が襟を御正しになった時には、貴様など……。

「――情報省、と言ったな」

 行き先は決まった。果たして白銀の真意は如何様なのか。
冥夜様のためにも、潔白な男であってくれと願いながら、私は情報省へと向かった。
















12月16日 13:00 帝国情報省内第一病棟



 ――なぜか、今日の食事は朝・昼共に一品多かった。しかも、普段食べているものよりも少しおいしかったような気がする。
それに、なんというか……、回診の先生も、検温に来る看護婦さんも、雰囲気が明るい。換気のためにドアを開けているんだが、看護婦さんの立ち話が漏れ聞こえてくる。
それによると、今日は何かの催しがあって、城下が賑わっているらしい。

「なんかお祭りでもやってんのかねぇ……」

 気晴らしの重要性は、こっちの世界に来てからと言うもの、骨身に染みて理解した。
羽をのばせるところでのばしておかないと、いざ気を引き締めなきゃいけないときに注意力が散漫になる。大事なのはオンオフのメリハリだ。
きっと帝国も、軍人市民を問わず、なにかしらの息抜きをしてるんだろう。

「怪我さえなければ、少しくらいは見に行けたかな? いや、怪我してなかったら帝国にいないんだから、結局無理か」

 まぁ、何をやってるかもわからないんだけどさ。
3時からのリハビリまでまだまだ時間がある。……一眠りしようか? それとも、自主的に何かしようか――
今ほど、ゲームガイが欲しいと思う時はなかったなあ。もちろんこの世界には必要ないものだけど、暇つぶしには最高の道具だった。
テレビで何か娯楽番組でもやってればいいんだけど。っつーか、ここテレビないし。

「ウルターメンとか、懐かしいよなあ」

 こっちの世界、おはじきとかケン玉とかはあったけど、ウルターメンパワードとか、特撮ものってあるのかな?
ベッドから出て、なんとなく覚えている変身のポーズをとってみる。
「――変、身」

 本当ならここで体から光が噴出して、巨大化して「ジュワ!」なんだよな。
ああいうヒーローがこの世界にいれば……ってのは夢の見すぎか。
そういえばあの物語のクライマックスで、一度やられたウルターメンが先に散っていった兄弟達の想いを受けて再び立ち上がる、なんてエピソードがあったっけ。
こうして死というものが極身近にある世界にあって考えてみれば、ひどく御都合なことに思えてしまうな。
でも、その御都合を体現してるのが俺……俺は、前のこの世界でおそらく死んだはずで。そして……

「死人が、何故ここにいる?」

 ――は?
慌てて声のした方を見やる。ちょうどドアのところに、なんと、
「……月詠中尉?」

 凍りつく病室。ポーズをとったままの俺。そんな俺を見ている月詠中尉。
ええと、月詠中尉は何しに来たんだ……? っていうかその台詞もう何度目になる?
――あ、何やってんだ俺。敬礼だよ敬礼。
ワンテンポどころか30秒くらい遅れて敬礼をする。中尉は軽く会釈して、

「ドアが開いていたのでな、勝手に入らせてもらった。何をしていたのか測りかねるが……ともかく敬礼は気にするな、今は礼式を省いて構わん」

 気のせいか、普段と比べて中尉の表情が柔らかい気がする。
それに珍しいこともあるもんだ。あの月詠真那中尉が礼を省いていいだなんて。

「了解しました、中尉。と、とにかく椅子をどうぞ」

 俺が椅子から立ち上がり、そのまま中尉にそれをすすめる。しかし中尉は「結構」とだけ言って、立ち続けていた。
仕方ないので椅子は片付け、自分はベッドに腰掛ける。

「楽な姿勢で構わんぞ、尋問その他の用件で参ったのではないのでな」

「――ありがとうございます。そ、それで……急なご来訪ですが、どういったご用件で……?」

「……」

 中尉は何も言わない。言葉を選んでいるんだろうか? ……少したって、やっと中尉は口を開いた。

「……それで、死人が何故ここにいる?」

「――俺、生きてますし。クーデター事件の時は、鎧衣課長に助けられて……」

「やはり鎧衣課長が動いているのか? ふむ……、貴様、生きていたのなら何故横浜基地、香月博士、ひいては冥夜様に一報を入れなかったのだ?」

 俺が二の句を告げる前に中尉が割って入った。

「え……?」

 課長の話では、夕呼先生には話が通っているはずだ。ということは、夕呼先生がとぼけている?
――あるいは、鎧衣課長が俺を騙したのか? まさか、そんなはずは……。

「鎧衣課長の話では、夕呼せんせ――すいません、香月博士には話が通っている、とのことでしたが」

 先生、と言いかけてしまって慌てて訂正。香月博士、ってどうも言いづらいんだよなぁ。

「なに?」

 むう、と唸って中尉は黙ってしまう。気難しそうな顔をして腕を組み、何かを考えているようだ。
さっき俺の情報を仕入れたって言ってたから、中尉も何か目的があって行動してるのは間違いないと思う。

「――香月博士が意図的に冥夜様達への情報を遮断した、と考えるのが妥当であろうな」

「だと思います」

 月詠中尉の結論はそういうものだった。夕呼先生の性格を考える限り……俺もそう思う。

「――鎧衣課長が貴様を用いることにしたとなれば、貴様に裏はない、か……。では……白銀武」

 うお、少尉とか訓練兵とか付かないのか。

「はい」

「感謝する」

 急に、中尉が俺に頭を下げた。

「え?」

 戸惑う俺を尻目に、中尉は頭を上げて言葉を続ける。

「先の烈士達による蜂起の折、殿下や冥夜様を命を張って守ろうとした貴様の挺身、また沙霧尚哉大尉の説得、そして介錯までも勤め上げた気概。
 斯衛軍として、冥夜様に仕えるものとして、そして一人の日本人として、貴様に心から感謝している」

「感謝だなんて、そんな……。俺はただ、やれることをやっただけです」

 月詠中尉の態度が、決起部隊が横浜基地を包囲した時の言い争いや、殿下に扮した冥夜を護送した時とまるで違うので、俺は面食らってしまった。

「貴様の経歴は謎が多すぎる故、国家転覆を企み冥夜様に接近を試みたのかとも思ったが……どうやら、私の杞憂であったようだ」

「俺は、人類の敵はBETAしかいないと思ってますよ」

 そうだな、と言って中尉は押し黙る。また何か考えているらしい。

「白銀、貴様帝国の情報開示はどこまで許可された?」

「いえ、そういう手続きはまだでして」

「では、今後の具体的な指針はまだ伝えられていないのだな?」

 はい、と俺が答えると、中尉はそうか、と言って窓の方を見た。

「あのう、中尉」

「なんだ?」

 中尉は窓の外を眺めたまま返事をした。聞いておくなら今しかない。

「今日は何かやってるんですか? 医師の話を聞くと、今日は何か帝国の催しがあるらしいですね」

 ――中尉がきょとん、とした表情でこっちを向いた。あ、この顔、俺の知ってる『月詠さん』に近いものがあるな。

「催し……? 本日が何の日だか知らぬのか?」

 カレンダーには、12月16日とある。

「あ、今日俺誕生日だ……ってすいません、関係ないですね」

「何? 貴様もか」

「も? 中尉もなんですか?」

「たわけ、今日は煌武院悠陽殿下ご生誕の日だ。城下の催しは臣民がそれをお祝い申し上げるもの。戦火によって日々が苦しくなろうとも、この日だけは辛酸を忘れるのだ。
 殿下も本日は朝早くから民草の前に御姿をあらわしになり、盛大な式典が執り行われている。かくいう私も、そのお祝いを申し上げるために城下へ参ったのだ。
 ここへの来訪はそのついで、とも言えよう」

「はあ……」

 ――殿下、俺と誕生日被ってたのか。偶然ってのはあるもんだなあ……
あれ、待てよ。殿下が誕生日ということは……?

「中尉、冥夜も……」

「冥夜? 知らん名だな」

 そう言いながら、中尉はきつい視線で俺を睨む。その話題に触れるな馬鹿者、という意味だろう。

「……申し訳ありません」

 やっぱり、ここで冥夜の話題はだめか。そりゃそうだよな、軽率だった。

「貴様の身の潔白が証明された今、ここに留まる理由もあるまい。騒がせて悪かったな、私は退散するとしよう」

 ――いきなり押しかけてきて、いきなり帰るんだなあ……。

「そ、そうですか。何のおもてなしもできませんで……」

「ふ、構うな」

 ドアノブに手をかけた中尉は、何を思ったのかこっちに振り向き、

「お誕生日おめでとう、白銀武」

 にや、と笑いながらそう言った。

「え、あ……」

「ではな、養生しろ」

 ありがとうございます、と俺が言う前に、部屋から出て行ってしまった。
一人取り残された俺は呆然とする。中尉自身はなんか納得したみたいだけど、俺には何が何だかさっぱりだ。

「……入院生活ってさ、毎日イベントが起きるもんなんだな」




















12月16日 22:00 帝国情報省内第一病棟



 月詠中尉が帰った後はまたリハビリを行い、だいぶ体が馴染んでいることを実感できた。
その後またひと眠りして、やっぱり一品多い夕食を摂った。体も無事に自分で拭けたし、あとは寝るだけめでたしめでたし――

「白銀? 聞いていますか?」

 ――俺が甘かった。
消灯時間を過ぎてからまたしても殿下の襲撃を受けるとは。
今日は忙しかったはずなのに、あまり疲れた様子を見せることもなく。
……つーか、普通一日式典に出ずっぱりだったならさっさと寝るんじゃないか?

「え、ええ。つまり今日は帝都の人々が殿下の誕生日を祝ってくれたわけですね」

「ええ、このような戦火の中で……あれだけの催しを受けるのは、我が身に余る光栄というもの」

 殿下は本当に嬉しそうだ。

「帝都の人たちが殿下を思っているのは当然として……殿下も、帝都の人達を愛してるんですね」

「ええ、もちろんです。――ところで……、私は今日でしたが、白銀の生まれは何月なのです?」

「誕生日ですか? それなら12月16日……つまり今日ですね」

「え……?」

 殿下がきょとんとしている。まさか自分と同じ日だとは思ってもみなかったんだろう。
実際、俺も驚いたもんな。

「まあ……! そなたも今日でしたとは。……つくづく、縁とは面白いものですね。――幾つになったのです?」

「ええと、多分殿下と同じです」

「まあ……」

 殿下はとことん驚いてるけど――
よくよく考えれば、俺と同い年で誕生日が一緒なのは当たり前だ。なんせ冥夜と双子なんだから。
もし、『元いた世界』で冥夜の姉さん――御剣悠陽が生きていれば、三人一緒に祝われたんだろうか……?
そういえば、冥夜も今日なんだよな。おめでとうの一言くらい言ってやりたかった気もする。

「白銀、そなたもおめでとうございます」

「――ありがとうございます。殿下も、おめでとうございます」

「そなたに何か贈り物ができればよいのですが、生憎となにもないですね……」

 殿下は顎に人差し指をあて、うーん、と考え込んでしまう。
わざわざ用意してもらうほどのことでもないので、俺は殿下の好意だけ受け取ろうと思った。

「いや、気にしないで下さい、そういうご時勢でもないでしょうし」

 俺は殿下を気遣ったつもりだったんだが、殿下の耳にはそう聞こえなかったらしい。

「白銀、こういう時勢であるからこそ、ですよ」

「……はあ」

 確かに、こういう時に祝われるほうが、『元いた世界』で祝われるよりも心に染みる気がする。
もちろん、あっちで純夏や冥夜に祝われたことが劣るってワケじゃない。ただ……
真面目な話、「死」と隣り合わせに生きている世界だから、生を重ねた瞬間が単純に嬉しいんだ。
安寧な日々を約束された世界より、常に窮地に立たされている世界のほうが、生きていることを実感できるんだろう。

「この間の林檎はまだありますか? あれば、せめて剥いてあげましょう」

 殿下は、プレゼントとして「林檎を剥いてあげる」というのを選んだらしい。

「あります、冷蔵庫にまだあと一つ」

 わかりました、と言って殿下は林檎を取りにいく。冷蔵庫の上にある果物ナイフも一緒に持って、戻ってくる。
備え付けの小さい水道で林檎を洗い、殿下は椅子に座りなおす。
すぐに林檎を剥くんじゃなく、先に質問をしてきた。

「……白銀、そなたの友である『御剣少尉』には、誕生日を祝ってくれるような友はいるのでしょうか?」

「へ……?」

 ああ、殿下、やっぱり冥夜のこと心配してるんだな。
妹がいることを否定しなきゃいけないってのは……どんな気分なんだろう。

「部隊の皆と打ち解けてますから、大丈夫です。きっと」

「――そうですか、よかった……」

 それきり殿下は黙ってしまう。黙々と林檎を剥いていくだけだ。
誕生日プレゼントが林檎。……でもまあ、殿下みたいな可愛い人に剥いてもらえるんだから、誕生日プレゼントの価値はあるよな。

「きっとあいつも今頃、今俺が殿下に祝ってもらってるように……皆に祝われてるんじゃないですかね。あいつ責任感あって……人望があるから」

「――そなたほどの技量を持つ者から信頼されるということは、あの者も相当の研鑽を積んでいるのでしょう」

 林檎を剥く手は休めずに、殿下は言った。
冥夜のいい所。――なんでかわからないが、不思議とよく出てくる。

「初めて戦術機のシミュレータに乗った時、普通みんな気分が悪くなるじゃないですか。その時あいつ強がって……大丈夫だ、の一点張りなんですよ。全然大丈夫そうじゃないのに。
 多分、弱いところを見せまいとしてたんでしょうけど」

 たまとか美琴とか大変だったからな、あの時。

「……眼に浮かぶようですね。誰しも、あれに最初に乗ったときは気分を害するものでしょう。……そなたは?」

「俺ですか? 俺は……まぁ、普通……ですかね」

「普通、ですか。大物ですね」

 余裕でしたってのもはばかられるんで言葉を選んだつもりだったけど、なんか余計そんな印象を与えちゃったかなあ。
でも実際、ジェットコースターやフリーフォールのほうがよっぽど揺れるしなあ。実際、あれくらいの揺れは心地いいんだよな。

「私も初めて戦術機の操縦訓練を行った際は、恥ずかしい話ですが……あの者達と同様、体調を害してしまいました。
 ある程度腕を認められるには、中々の歳月を要したものです」

「腕を認められるって言えば、国連軍は総戦技評価演習を孤島でやるんですけど」

「はい」

「うちの隊は……殿下もあの時会いましたから大体は顔を覚えてると思うんですけど……
 結構わけありで、隊長と一人の隊員が仲があまりよくないんですよ。
 結局演習の最中に隊長とその隊員で仲違いをしたんですけど、そういう諍いの仲裁に入るのもあいつなんです」

 委員長と彩峰のケンカを、俺が入る前からなだめていたんだ。
たまじゃおろおろするばかりだし、美琴はそういう気配りに長けてないし……気苦労は多かったろう。

「そうですか……。部隊の結束というものは、確固たるものとなるには相応の問題を乗り越える必要がありますからね。
 特にそなたの部隊は――」

「今回の決起事件で、それを思い知りましたよ」

「……はい」

「俺、あいつと本気で言い争いになったのってあの時が初めてなんです。
 今考えれば、あいつの主張は立場とかを考えれば当然の事なんですけど、俺にはあいつの主張が理解できなかった。
 結局、解決しないまま互いに頭を冷やして謝ったんですけど、あんなふうに怒るのははじめてだった」

「……芯の通った者ですからね、白銀も苦労したでしょう」

「ええ、そうなんです。でもそういう強さが大事なんだ」

「強さ、ですか。そういえば白銀、今日の式典の最中……」

 見習うべきもの。拠所。このあいだ殿下と約束したように、俺も見つけなくちゃ。

「国のための覚悟とか……要は、俺のほうが操縦の腕が上だといっても、やっぱり学ぶべきところはたくさんあるってことなんです。
 言われるがままに戦うだけじゃ人間じゃない。ただの歯車ですから。あいつの、自分の信じる――そういう信念、上手く言えないんですけど、そういうのを見習いたい」

「あ……」

「他にも――そうだ、俺の戦術機の機動データをあいつが見てたときのことなんですけど……」

 俺は、どうやったら俺のような動きが出来るかを真剣に質問してきた冥夜のことを話した。
いつバーニアをふかせばいいのだとか、どのタイミングで下降するのだとか。寝る間も惜しんで研究していたに違いない。

「あいつ、勉強熱心なところもあるんですね」

「そうでしょうね。白――」


「で、その話にはまだ続きがあるんですけど――」

「……」

 俺は思いつくまま、部隊でのことを話していく。
自分が入隊してから今までにあったことを、思い出せる限り。
――何故か記憶の中には、207の隊員の中で……冥夜の出番が多かった。
そりゃあそうだよな、一番世話になってるわけだし。
……いつのまにか、殿下の相槌は消え、林檎を剥く音と俺の声だけになっていた。

「で、その時冥夜が――」

 ――ぽん。
殿下が話を遮って、俺の頭に何かを置いた。

「これはウチの隊長もそうだったんですけど……ん? あれ? なんだこりゃ?」

 手にとって見てみる。これは……冠?

「林檎……なのか? この冠みたいなの……。殿下、手先が本当に器用……あれ?」

 目の前で殿下がすっくと立ち上がる。そのまま無言でドアのほうへ。

「あの、殿下――?」

 俺が呼びかけても、殿下は答える素振りがない。
ドアノブに手をかけた殿下は思いついたように振り返り、更にちょっと冷たい感じで、

「……おやすみなさい、白銀」

 俺と眼をあわせ、一言だけ言ってドアを閉めて出ていってしまった。ちょっと寂しげに。
――なんだ? 殿下、もしかして怒ってたのか? 俺、何もしてないよな? 無礼なことしてないよな?

「――殿下、どうしたんだろう?」

 怒っていたとすれば、いつ? なぜ?

「俺、なんかまずいことしたか?」

 ちょっと落ち着いて自分がしたことを思い出してみる。
来訪を受けて、式典の話を聞いて、誕生日を祝ってもらって、林檎を剥いてもらって、俺が冥夜の話をして……

「――何もしてないよなあ」

 芸術品と言えそうな林檎細工を眺めながら、俺はなにがなんだかわからなくて……
仕方ないので、その林檎を食べて寝ることにした。










                            ■マブラヴオルタネイティヴ 〜きみしにたまふことなかれ〜  第四話『躓石縁端』  終